My History vol.2〜トンネル少女「小さな勇気」〜

今の私のスタンスに大きく影響しているのが、私の少女時代。私はトンネル掘削専門業に生まれ、「飯場(はんば)」の中で育ちました。このシリーズでは、私自身というよりも私が飯場でみてきたことを綴っていきたいと思います。しなやかに、たくましく生きた人たちの姿が、現代を生きる人々の励ましになることを確信して、私のみてきたことをお話しします。
 

今、私は造園の仕事を全国でしています。拠点は岐阜県にありますが、現場はさまざまな場所にあり、東京の現場で仕事をした次の日には茨城県で仕事をし、それが終わると富山県へ向かう、というのが私の仕事の日常です。仕事にはたくさんの道具が必要ですから、それらを車に乗せて自分で運転していきます。道中にはいつも数多くのトンネルを通ります。それらの中には私の父たちが掘ったトンネルもいくつもあります。例えば東名高速道路では、最も長い日本坂トンネルも、370mと短い袖師トンネルも、父の会社が掘削を請け負いました。トンネルを通るたびに、私は幼かった頃のことをふと思い出します。

昭和の時代のトンネル掘削業は、今とはその仕事の進め方も、労働者たちの暮らしも違います。当時の暮らしは、いわば大キャラバン隊でした。現場が変わるごとに100人、150人という規模の労働者が、家族とともに一斉に移動しながら仕事をし、暮らしをともにします。現場が決まると、まずはそこに生活拠点を作るところから始まるのですが、トンネルを掘るわけですから、たいがいは水道も電気もない山の中に暮らすことになります。そこに、水道を引き、電気を引いて、仮住まいの家を自分たちで建てるのです。家族づれには平家の戸建てが、独身者のためにはまた別の棟が建てられました。お風呂はゆうに30人以上は入れるヒノキの大きなお風呂で、子ども達はこのお風呂に入るのをいつも楽しみにしていました。炊事場も一食に150人分を作る必要があるので、もちろん一般家庭の台所とはまったく違います。ここがまさに「飯場(はんば)」なのですが、労働の現場とは別の生活拠点、暮らしの場所という大きな意味で飯場という言葉は使われていました。私は生まれた頃からこの飯場で育ち、大きくなると炊事を手伝うようになりました。飯場には本当にいろいろな人がいましたが、中でも私が今でもよく名前を覚えているのが「平九郎さん」です。

覚えている、と言っても私は平九郎さんに会ったことはないのです。大人たちが「平九郎」という名前を度々、口にするので、小さい頃から名前だけはずっと知っている「平九郎さん」なのでした。どんなときにその名前が出るのかというと、誰かが仕事をサボったときのようでした。「なんだ、今日はアイツは平九郎か」という具合です。あるとき、不思議に思って平九郎さんって誰なの? と聞くと、こういうことでした。

「平九郎さんは容子が生まれる前にいたトンネル工のおじさんだよ。身寄りのない人でね、お給料が出た途端に、いつもいなくなっちゃうんだ。どこで何をしているのかは分からないけど、おおかた賭け事とか、お酒とかそういうことで散々遊んで、お金が底をついてくるとまた戻ってくる。で、飯場のおばちゃんたちにギャンギャン怒られながらも、いつもシレッといるという人だったんだ。だから、いつしか“平九郎”といえば“サボる”っていう、サボりの代名詞になっちゃったってわけだ」。

トンネルの仕事は基本給があるのですが、それに加えて1m進んだらいくら、2m進んだらいくら、という出来高制で成り立っていました。4m進めば1m進んだ時の4倍のお給料がもらえるわけですから、みんなそれはそれは一生懸命掘るわけです。で、よく進んだ時にはお給料袋が机に立つと言って、とても喜んでいました。けれども、山が悪いときはそうはいきません。「山が悪い」というのは、地層によっては地中がドロドロのところもあったり、逆にすごい岩盤で硬いところもあったりして、掘削が困難な状態のことです。また、順調に掘り進んでいたとしても、大地は生き物のように動きます。天候によって一晩で地層がグーっと動き、たちまち掘り進められなくなることも珍しいことではありませんでした。特に長野県から岐阜県にまたがる恵那山のトンネルの地層は、一晩で地層が動くことが多く、工事がとても難関だったことを記憶しています。

掘削は班で進めるのですが、そんなわけで平九郎さんの班は、他の班より掘り進まなくなることがしばしば。お給料に影響が出るのでみんな怒る。怒られながらも平九郎さんはいつも給料袋とともに消え、またプラッと戻ってくるという人だったそうです。平九郎さんに限らず、トンネル工にはこういう人がいっぱいいました。気が荒い人が多くて、喧嘩はするわ、酒は飲むわ、仕事はサボるわ…(笑)。今の世の中でいえば、ダメ人間、クズ人間と言われてしまうような部類の人なのでしょう。けれども、子供には本当に優しかったのです。我が子と離れて暮らしている人が多かったからでしょう。自分の子供を可愛がるように、私は本当にみんなに可愛がられて育ちました。

あるとき、新しい現場へ移り、私も何回目かの転校をした日のことです。それはとても大きな現場で、その街の一角にもう一つ小さな集落ができるような規模の飯場が立ちました。そのことを新しい学校の校長先生が全校生徒の前で話しました。トンネル工事があって、街にトンネル工事のための人がたくさん来る。街の外れに彼らの暮らす場所ができる。そして最後に「危ないから彼らに近づかないように」と言ったのです。

学校の先生から見たら、きっと真っ黒に日に焼けて、いつも泥だらけで汗まみれの彼らは、自分とは全然違う人間に思えたのでしょう。実際、大して勉強などできなかったでしょうから、「勉強しないとああなるんだよ」と指をさされるような人たちだったかもしれません。先生にしてみれば、トンネル掘削業など底辺の仕事だと思えたかもしれません。でも、彼らは自分の仕事に誇りを持っていました。俺がこの手で掘らなきゃ進まないと言って、命がけで毎日仕事をしていました。掘削は本当に危険と隣り合わせの仕事でした。掘った先で水がドッと出ることもありましたし、落盤はしょっちゅうありました。今はダイナマイトは使いませんが、当時はダイナマイトを詰め、ドーンと地盤を爆発させながら掘り進めていました。最初のダイナマイトで落ちきっていなかったものが、急に落ちてくるということも度々あり、その下敷きになって亡くなった同級生のお父さんもいました。トンネルは国の事業ですが、規模によってこのトンネルでは2人、このトンネルなら3人、というように、予算の中にはあらかじめその工事で亡くなる人の保障の金額が組み込まれていました。つまり、人が死ぬのを前提として、その犠牲の上に成り立っていた危険な仕事だったのです。その死も、掘った人たちの名前も、表に出ることもなければ記録にも残りません。けれども、そうした名もなき人々が命を張って掘り進め、交通網ができたからこそ、経済は発展することができ、今があるのだと私は思います。

おじちゃん達の仕事がこの国の礎を築いているということは、小学生の私にはまだ分かりませんでしたが、「危ないから近づかないように」という校長先生の言葉が間違っているということは分かりました。彼らがこの新しい街で、そんな風に思われてしまうことが悲しくてなりませんでした。私は朝会が終わると、教室へは向かわず校長室へ行きました。そして、猛然と抗議しました。私は飯場から来た娘であるが、どれほど彼らが一生懸命仕事をしているか、どれほど優しいか、知っている限りのことを話しました。そして先生が言ったことを撤回してほしいと訴えました。私は特別、勇敢であったわけでも、行動力のある子供であったわけでもありません。けれどもその時、彼らを知っているのは、ここに私しかいないのだから、私が違うと絶対に言わなければならないと思ったのです。

校長先生は黙って私の話を聞き、「すまなかった。私が間違っていた」と言ってくれました。私はその言葉に心からホッとすると同時に、足が震え始めました。本当は、すごくこわかったのです。さっきまでの威勢はどこへやら、腰が抜けてしまい、カクカクとぎこちない様子で教室へ戻った自分を思い出し、トンネルを通りながら一人車の中でクスッと笑ってしまいました。